サリン事件とモスクワ放送

  サリン事件のあったとき、事件を知るより前に、
私は短波放送界でとんでもないことが起きているのに気が付いていた。

 

 モスクワ放送というものはもうとっくに存在しない。ソビエト時代はそういった。ソ連崩壊とともに、モスクワ放送はラディオラッシャインターナショナルと名前を変えた。何のことはない、「ロシア国際放送」と名前だけ変わった。

 子供の頃から海外放送を聴いて育った私には、モスクワ放送はいつも仇だった。なぜって、奴らの電波は強すぎる。数も多すぎる。世界のどこにいようが、窓の外からメガホンで怒鳴られているみたいに聞こえる。周波数覚える必要なんてない。アルゼンチン放送など、幻の放送局といわれて、僕らが雑音の中からやれ聞こえたの、聞こえないのと必死になっていたときに横殴りに聞こえたのもモスクワ放送だった。あの大きくて、少しくぐもった音は聞いただけでそれとわかる。それと電波が強大なので、エコーがかかる。地球のこっち側回りと、あっち側回りが両方聞こえるからである。ソビエトの声は文字通り地球にこだましていたのである。

その日は例によって、ラディオ・ジャパンでも聴こうかいと、短波ラジオのスイッチを入れた私は状況がまるで理解できなかった。どこを回しても同じ放送ばかり。それが、聞き慣れたあのロシア人の声ではない。英語だ。ロシア放送の英語番組も多い。しかしそうではない。だって、彼らの英語は少々なまっていても、ちゃんと英語だ。

私の聴いたのは紛れもなく、日本人の話す英語だった。それも、英会話教室なんかとは縁のない、いかにも日本人の話す英語だ。私たちの意志を世界に伝えるときが来たとか何とかいっている。若い男の声と、女の声。そのうち、趣味の悪い日本語の歌までかかった。「〜〜〜ゆくのだ〜〜なんなのだ〜〜かんなのだ〜〜そおして〜〜あしたの〜〜〜〜♪」・・・・・・・・・・・・・・・ご丁寧に、英語の翻訳が続いた。こういうものがまる2日間続いた。

そうこうするうちにサリン事件のことを知る。これはラジオ日本から知った。こちらのメディアでも騒ぎ始めた。

私はとにかく、この時初めて、自分から進んでモスクワ放送(私にとってはいつまでも「モスクワ放送」なんである)を探した。普通なら、いろんな言語で放送を展開している彼らが、その日に限って、この忌々しい英語番組しか放送していないのである。もちろんラディオラッシャインタァナショナルというIDも聞こえない。 彼らは買収されていたのである。

私にとってはあり得ない話だった。だって、国を代表する放送局である。幾ら民営化されたって、国営放送局のようなものである。みなさん、NHK(これは国営ではないが)の全てのチャンネルがレンタルされるという事態を想像できますか?!このことは、ロシアという国が金の為なら何でもやる、という以上の意味があると私には思え、恐ろしい予感が頭を占領し始めた。

そういえば、私の兄はロシア関係が専門であったから、慌てて日本に電話をした。いつだったか、ゴルバチョフが誘拐されてモスクワに厳戒令が敷かれたころも、慌てて電話をしたことがある。あのころ彼はモスクワにいた。両親に安否を尋ねたら、昨日帰ってきたところだといった。こんども、この日はゆっくりだったので、その時間帯の地下鉄に乗り合わせていなかったという。強運というしかない。私は二回とも胸をなでおろした。

興奮して話す私に、兄は、のんびりした口調で「今ならあいつら、金貰えれば何でもやるよ」。何でもないように言う。まあ、兄は経済学者だ。私にいわせれば、「そんな悠長なこといってる場合じゃないでしょ!」。たしかにオウムにロシアと親しい人物がいるのだろうけれど、それ以上の心配はないって。私はなんだか煮え切らない言葉に、いらだちもしたが、やはりほっとした。

しかし、ヨーロッパというところはアメリカと日本以外はどこも感覚的に陸続きである。(中国は感覚的には「違う大陸」である)いろんな所の紛争などがとても身近に感じられる。湾岸戦争だって、ボスニア戦争だって、隣の火事だ。何か起こるとドイツには難民がゴマンと流れ込んでくる。初めにたどり着く安定した国だから。(これは昔からそうで、ドイツはいつも利用されてしまう。他人に対して気前がよすぎる。そのあげく恨みたまって、ひょっとするとナチ政権なんてものを生んでしまったりしたのだ。)周囲の戦争は、この国で暮らす私たちにいろいろな犠牲を強いる。そして、ロシアなんて、すぐそこなのである。

それにしても、放送の内容はプロパガンダというにしては実にお粗末で、しかもあの英語だから、文字通り世界中の笑いものになったと思う。あれもきっと東大卒のエリートだったんだろう。あれをやっていて、日本ではあれだけ信者を集めたのだったら、日本人の精神構造がどんなに脆弱か想像される。実際、それを笑い話のネタにする人も多い。なんであの汚い男に付いていくのかって訊かれても、僕だって返事は出来ない。

 

ーYH    

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最終更新: 2001年05月29日 2:55